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裏庭の鶏

映画と本と、時々舞台

『ミス・サイゴン:25周年記念公演 in ロンドン』 感想②

映画 観劇

 前回の続きの感想です。こちらの感想は鑑賞後のもやもやを言葉にしていますので結構マイナス意見あります。ご了承ください。

●「ミス・サイゴン」におけるベトナム戦争って結局なんだったんだろう
 この作品で描かれたもの描きたかったものってなんだったんだろう、この作品におけるベトナム戦争はどんな意味を持っていたんだろう。そう思いました。私はパンフレットを買っていない(そもそも売っていない)のでインタビューなどの情報を知りません。ですから作品からそれを想像するしかない。


 まず、ミス・サイゴンで描かれているベトナム戦争ってとても断片的……というかむしろベトナム戦争について知っていることを前提として作られているように思います。

 だからベトナム戦争を知らなければ「よく分からないけどベトナムで内戦が起きた」「よく分からないけどサイゴンホーチミンになってアメリカ兵と親しいベトナム人は虐げられた」「よく分からないけどブイドイと呼ばれたかわいそうな子どもたちが存在した」ということしか分からない。
 でももしかしたら当時のベトナムの人々だってなぜベトナム戦争が起きてしまったなんて理解できないまま戦争に巻き込まれてしまったのかも、なんて思いました。

 ただ、ベトナム戦争を描いているって評判をよく耳にしていたのであまりに雑でちょっと物足りなかったかも。ミュージカルにしては、という前提を忘れていました。
 それからホーチミン政権下におかれたベトナムでの、あのマスゲームのような統率のとれたダンスはライトやら衣装やら含めて悪役な扱いでしたね。巨大なホーチミン像も気になりました。

 キムという女性、そしてエンジニアのようなアメリカ兵相手に商売をしていた人間にとってはホーチミン政権は「悪」だったんでしょうか……? 
 アメリカ兵を「戦争被害者」であると描くけれどその後のホーチミン政権については人間味のない衣装にマスゲームダンスと社会主義を意識しているのか個人崇拝的なホーチミン像を登場させる。
 おまけにアメリカに帰ったジョンは何かに目覚めたのかブイドイを救うべきだと歌い上げる。ここのシーンはミス・サイゴンの中で1位2位を争う胡散臭いシーンでした。タムの境遇を説明するためには必要なシーンなのでしょうが唐突にお説教な歌が始まり実際の子どもたちの写真が登場し……。感動の押し売りって感じがしてもやもや。
 なんだか制作陣の国籍とかも含めて穿った見方しちゃうんですよね。

 個人的には「ベトナム戦争を生々しく描く」という評価をよく目にしていたものですからちょっと拍子抜け。ベトナム戦争を生々しく描くというかエンターテイメントとしての「ちょいグロ」要素といった雰囲気でしたね。



●アジア人「蔑視」だとか女性「蔑視」だとかって結局
 あとこの作品って「アジア人蔑視」とか「女性蔑視」とかって批判されることもあるようです。ウィキペディア情報なので信憑性についてはさておき(笑)私もそれっぽい雰囲気を感じました。

 けれどこの作品ってきっと「蔑視」ではないんだろうなと感じます。単純なエンターテイメントとして描いた結果なのではないでしょうか。昨今の作品ではコメディ以外ではめったにお目にかかれないステレオタイプ、それもスニックジョークに通じるようなステレオタイプであるから余計にそう思います。だって戦争ものでエスニックジョーク的ステレオタイプな登場人物ってそうそうお目にかかれませんよね。
 
 それを無意識下での蔑視というならば、もしかしたら蔑視といえるのかも。

 ただ一人の女性として正直な感想を言うならば、いくら状況が地獄のようだからといっても初めての相手に恋してしまうという描き方はコメディ以外では気にさわります。こんなシリアスでヘヴィな作品ならば尚更です。
 そして状況のせいにするにしたってキムの処女性が強調されているのもなんだかなあという印象。これがジジのような女性とGIの純愛だったらまた違ったんでしょうけどね。



●戦争とエンタメ
 この上映において唯一、嫌悪感すら抱いたのはロンドン公演の観客の歓声でした。

 確かに素晴らしいパフォーマンスです。私も生で舞台を見たら感動していたに違いありません。しかし歓声を聞いた時に感じたのは不快感でした。
 それは何故か。おそらくそれはロンドン公演の観客が純粋なエンタメとして楽しんでいるとことへの違和感です。

 くりかえしになりますが、パフォーマンスは本当に素晴らしかった。けれどそのパフォーマンスはただの「パフォーマンス」ではなく別の側面、つまり「戦争を描く」という面も持っています。勿論受け取り方は様々かと思いますが少なくとも私にとってはそういう面が「ミス・サイゴン」にはあるのだと思いました。でなければどうして実際のベトナム戦争の写真を使えるのでしょう。私はあの写真の数々を演出に使用したのはそこに何らかの「意図」があるからだと思ったのです。そうであるからこそ、パフォーマンスだけに拍手をおくれない。純粋なエンタメとして見ることができなかった。

 つまりは私とロンドン公演の観客に絶対的な温度差があったのです。おそらくロンドン公演の観客はミス・サイゴンのファンなのでしょうから温度差があったことは当然です。そう思っていてもやはり私は「この人たにはベトナム戦争を消費している」と感じざるを得なかった。そしてカーテンコールの華やかさも違和感。ずどーんと暗いどんよりとした気分のままだったら「そういうベトナムで起きた一連の歴史の理不尽さ」だとか「人間って結局弱くてずるくて、それによって身を滅ぼしちゃうよね」だとかそういうものを作品から受け取ったのでしょうがカーテンコールによって「結局のところエンターテイメント」という結論に至っちゃうんです。
 もちろん素晴らしいパフォーマンスであったり心に刻み込むような素晴らしい作品には私だって心からの拍手をしたい。けれどそれは素晴らしいエンターテイメントへの称賛にはなりえない。

 私はベトナム戦争について特別な関心を寄せていたわけではないし、近代史としての最低限の知識しか持っていません。けれどエンタメとしてベトナム戦争を消費できない。だから作品にメッセージ、あるいは風刺でもなんでもいい。何かを感じたかった。しかし私はミス・サイゴンにその何かを感じることが出来ませんでした。ベトナム戦争でなければならない理由が分からなかったのです。
 そしてこの作品はきっと本来的にはベトナム戦争である絶対的な理由らなく、物語の背景にベトナム戦争が選ばれたのだと思います。だからといって私はただのエンタメとして楽しむことも出来なかった。

 私はまだミス・サイゴンという作品を消化できずにいます。もしかしたら別の俳優さんの、別の演技を見たらまた解釈は変わるのかもしれません。もう少し年月をおいてからまた見たらまた感じ方も変わるかもしれません。少なくとも今の私にはこの作品はあまりにも「合わなさ過ぎ」ました。

 戦争映画でもあまりに辛くて「見てよかったけどもう二度と見たくない…」と思ってしまう作品はあります。けれどこの作品は描かれていること辛いからではなく描かれ方や受け止め方に疑問を覚えてしまうという私の中で異色の戦争物になってしまいました。

 

『ミス・サイゴン:25周年記念公演 in ロンドン』 感想①

映画 観劇

 日本最速プレミア上映で、名前だけ知っていて今回初めて見た作品でした。評判通り素敵な楽曲ばかりです。作品にパワーがあると感じました。

 なかなか感想がまとまらずかなりの時間差になってしまいました。とても心乱され、今でも考えると少し乱される作品。なかなかこんな作品出会えないのである意味とても良い経験になりました。

 そして映像ですが、良い意味で舞台映像らしくないまさに映画のような映像でとても見やすく臨場感の溢れる映像です。舞台映像ってどうしても生じゃないので作品の「枠」が見えてしまい世界観に浸れず苦手なので覚悟して行ったのですが杞憂に終わりました。特にヘリのシーンは圧巻! 

 普段の映画と違う点といえば歌の後に拍手が入ること。もちろんロンドン公演時の観客の拍手です。個人的には作品の世界に入り込んでいたいのでちょっと現実に引き戻されてしまったのですが「舞台らしい」といえば舞台らしいのかも。
 あとはインターミッションが入ったのも最近の映画だと珍しいのかな、と思いました。私がインターミッションの入る映画を見ていないだけかもしれませんが(笑)


 さて、以下ストーリーに関しての感想ですが、新作でもないのでネタバレなんてあってないようなものかなと思いつつも演出等にも触れますのでご注意ください。
 またこの作品に対してマイナスな意見もありますのでその点ご了承ください。

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 まず、この作品を見て最初に思ったのは「蝶々夫人だ……」ということ。ストーリーはほぼ蝶々夫人のあらすじと同じ。だから見ていてだいたい展開は分かってしまうのでキムが愛を歌うたびに苦しくなってしまいました。「あ~~でもこれ蝶々夫人ならキム死んじゃうよなあ」と思いながら見るのは結構しんどいですね。

 また、サイゴン陥落のヘリのシーン。ヘリを見上げて嘆くベトナム人達に胸が締め付けられました。舞台の方を見ていないんですが、あのヘリどうなってるんです……? 迫力のある映像で鳥肌がたったのですがあれ、舞台でどんな演出になってるんでしょうか。凄い。それはジジたちの歌のシーンも同様です。辛い苦しい悔しいといった感情にこちらまで苦しくなりました。


 しかしミス・サイゴンベトナム戦争を背景においています。登場人物が背負うものも蝶々夫人のそれとは種類が違うと感じました。というかそう意識して観劇してしまいました。
 私は純粋な気持ちでこの作品に拍手することが出来ません。それは「蝶々夫人」をもとに描かれた「ベトナム戦争」をエンタメとして楽しむことができなかったから。

 どの俳優さんも素晴らしいパフォーマンスでこの作品を作り上げていると思います。歌も素晴らしく、例えばジジが歌うナンバーには心が締め付けられますしライブ音源があるなら買いたいぐらい惹き込まれます。

 けれど私にとってこの作品は前提としてベトナム戦争を描いたものという意識があるせいで歌だけに惜しみない拍手をおくることができない。実際のベトナム戦争の映像が使われているから余計にその意識は強くなっていました。
 だから「蝶々夫人」という、フィクションの、そしてあらすじを読む限りでは限りなくステレオタイプなアジア人女性の物語をもとにした登場人物にどうにもリアルさとのギャップを感じてしまうのです。

 少し長くなりそうなのでこの記事では登場人物についての考察のような感想のみ。
 ただ、私はこの作品をこの上映会でしか観賞していませんのであくまでロンドン公演でうけた登場人物の印象です。その点ご了承ください。

 
Ⅰ キムというフィクション

●キムはいつ「死んだ」のか
 キムはいつ死んだのか。私はキムという女性はクリスへの愛によって延命されたのだと感じました。彼女が生きた人間に感じられなかった。身の上話をしている彼女に一番「生」を感じた。
 私にはキムがなぜクリスをそこまで愛したのかが分かりませんでした。キムは最初エンジニアに言われた通りクリスを客として見ていたと思いました。エンジニアに上手くやれと言われ神妙な顔で頷いていましたから。けれど一夜をともにするとキムは本気でクリスを愛しています。
「え、なんで?????」
これが私の本音です。クリスが他のGIと違いまだ多少の「善人」の心を持っていたから?キムが無垢だったから?それとも戦争によってボロボロになったキムは愛に飢えていた?そして少しだけムッとしていしまいました。そのような立場の女性たちの心は私には分かりませんが、これがフィクションである以上「制作側はこのような立場の女性が客として自分を買った最初の男性を愛してしまう」と考えていると思ったからです。蝶々夫人がもとだから仕方ないのかもしれませんが……。うーん、銅にも腑に落ちない。

 そして見ていくうちに「クリスへの愛、クリスからの愛が彼女の生きる理由になっていた」からではないかという結論に至りました。
 愛が生きる理由だなんて表現すると非常にロマンチックですが、言ってみればキムが愛する相手はクリスでなくても良かったのではないかとすら思えます。つまり、戦争で天涯孤独になったキムは愛を求め、自分を愛してくれる可能性のある相手を愛してしまったのではないか。そして「クリスを愛する」ことを生きる目的にしてしまったのではないか。だからタムを愛するしトゥイを拒絶するのではないか。そう思いました。
 というかそう解釈しないと作品全体にオリエンタリズムを感じてしまって正直見ていて辛い。

(余談ですが、結構衝撃的だったのはキムのトゥイに対する拒絶反応でした。もともとトゥイのことが嫌いだった、親に押し付けられた結婚が気に食わなかった。これなら分かります。けれど、「あなたはベトコン!」と言うシーン。
 一瞬キムが何言ってるのか理解出来なかったんです……。これってキムは南ベトナム出身で、トゥイはベトコン。つまりトゥイはベトコンであることを隠したままキムと婚約したということですよね。
「えっベトコンと結婚する方がアメリカ兵に対して売春するより嫌なの?」
と若干驚いてしまった。
 少なくともあの物語においては生きるため仕方なく売春している女性たちという描かれ方をしていたのでそれよりもベトコンとの結婚を拒絶するって私には想像もつかない世界でした。)

 閑話休題。ともかく私にはキムがクリスしか見えていないように思えてならなかったのです。
 抽象的な表現ですが、キムは夢の中に生きているような、それこそ半分ぐらい映画の中に生きているような印象でした。もしかしたら辛い現実の中ではキムは生きていけなかったのかもしれません。だからクリスへの愛、クリスからの愛を少しでも疑い現実を見てしまったキムは夢から醒めなければならなかった=生きることが出来なかったのではないでしょうか。

●顔のないタム
 ではキムは母だったのか。私にはキムは母たりえなかったと思えてなりません。だってタムはあまりに無個性で誰にとっても「タム」という名は記号でしかないように見えました。
 だってタムがあまりにも無表情で言葉もないから。

 キムにとってタムはクリスと自分の愛の証明。
 クリスにとってタムはキムとの愛の思い出と同時に罪の印。
 エレンにとっては戦争の爪痕であり保護の対象。
 エンジニアにとってはアメリカへのパスポート。
 トゥイにとっては憎きアメリカ兵が許嫁に産ませた生き恥

 ではタムとは一体「誰」だったんでしょう?彼が成長したらどんな大人になるのか?
 キムはタムを愛していたのか、私には分かりませんでした。やはりキムはクリスを愛する「女性」であり続け、母親という側面を持つことが出来なかったのではないかと思います。もちろん子を持つ母親が「女性」であり続けることは悪いことではありません。むしろ「女性」であることを捨て「母親」であることを強いられることは間違っているとすら思っていますが……閑話休題。なんだかキムがタムに「命をあげよう」と歌うところもクリスを愛するがゆえにタムを愛するって感じがしちゃうんですよね。キツイ言い方をしてしまえば「もしもタムがクリスの子でないとしたらキムはタムを愛さなかったのではないか」とすら思ってしまったのです。この物語においてそのIFは成り立たないことは重々承知なのですけれど思わずにはいられない。


Ⅱクリスというリアルとフィクション
●クリスは被害者か
 次にクリスについてですが……。クリスってリアルな人間であるけれど、やっぱりフィクションなんですよね。

 一般的に見ればベトナム戦争におけるアメリカ兵って「加害者」であると同時に「被害者」でもあったという認識なのではないかと思います。とは言ってもこれってどの戦争にも言えることなのですが。ベトナム戦争はやはりPTSDが社会的に問題となった、戦争自体の意義が見失われた、という点において殊更その認識が強いように思います。

 けどクリスって「加害者」的側面が描かれてないんです。あくまで彼は「被害者」の一人。じゃあ「加害者」は誰?それは「戦争」です。でもそれっておかしいですよね。確かにクリスは戦争により心に傷を抱えたままアメリカに帰り、そのアメリカで白い目で見られ居場所をなくしてしまった。もう心はボロボロです。ここは見ている私たちが想像しなければならない「余白」なのかもしれませんが、クリスって辛い思いをしたんですけど死にそうな目にあったから?仲間の死を見てしまったから?それとも自分が人を殺したという罪の意識にさいなまれた?分からないんです。想像するしかないんです。
 そしてこの作品に描かれるクリスって「加害者」である面が排除されちゃってるように感じました。クリスも「被害者」であるという面を強調することによって反戦をうたうというのなら、もしかしたらそうなのかもしれませんね。そうなってくるとクリスは「フィクション」でありそのキャラクターはリアルさを排除されたある種の「象徴」になります。

 その反面、クリスはリアルさも持ち合わせている。それは人間の身勝手さと弱さです。例えばなんだかんだでキムを買ってしまうのは「人間的弱さ」でしょうし、同時に「身勝手」でもある。タムの存在に「困ったことになったぞ」みたいな反応しちゃうところも、エレンにキムのこと言えなかったのも「人間的弱さ」からくる「身勝手」です。それが責められるべきことかと問われればそれは酷かもしれません。


●クリスを囲む女性たち
 女性である私はどうしても「被害者」クリスの周りの女性が「都合のいい女性」にしか見えないんです。これがこの作品に描かれる「愛」なのだと言われれば「そうですか」としか言えませんが、「クリスってここまで聖母みたいな女性たちに愛されるほどの人間か?」と思ってしまったのも事実なんです。いや、むしろ聖母みたいな女性だから弱いクリスに救いの手を差し伸べたくなるのでしょうか。この物語の「愛」ってそういう「愛」だったんでしょうか。
 人を愛することに理由なんていらない的な理論ということで理解してますが、この物語がフィクションである以上クリスの周りに配置された登場人物はクリスに都合のいい人間だったという印象はぬぐえません。

 そういう意味でやはりクリスは「フィクション」であると感じます。

 
Ⅲエンジニアというフィクション、トゥイとエレンというリアル
●エンジニア
 エンジニアはとっても生命力溢れるキャラクター。アメリカに憧れているというよりも「自分はもっと幸せになる」という強い欲求で動いているように見えました。
 他のことはどうだっていい、自分自身が幸せを掴むためならば全てを利用してみせるという幸福への執着は見ていて気持ちがいいです。
 エンジニアというキャラクターはいかにもフィクションなキャラクターだけれど、見ていてポジティブな気分になるような魅力を持っていると感じます。


●トゥイ
 彼を誰が責められるのか。アメリカ兵への憎しみ、愛する許嫁を取られてしまった嫉妬は罪ではないはず。
 彼にとってキムは憎きアメリカ兵に騙されてしまった哀れな女性だったのかな、と思います。だからこそキムを迎えに行ったのだし、クリスへの愛をいまだ忘れないキムとその子どもタムには強い強い絶望を覚えたのでは。
 では罪のないタムを殺すことは仕方がないのか。動機は理解できるけれどそれはあまりにも悲劇過ぎる。タムにとっても、キムにとっても、トゥイ自身にとっても。

 最初にキムを迎えに行ったときの嬉しそうな顔が忘れられません。本当にキムのことを心配していたのだろうと思うとその後の険しい顔、憎しみで歪んだ顔が悲しすぎました。

 あと、彼の亡霊はキムの罪悪感がトゥイの形を取ったのかな、と思います。だってキムはトゥイを殺した後に自分のしたことへの理解を拒んでいるように見えたから。

 あの時のキムの叫びに嘆きは感じられず、むしろ何かを拒絶しているようだと感じました。
 では何を拒絶したのか? 自分を守るためにトゥイを殺してしまったという事実を否定してしまったのではないかと思います。けれどその事実からは逃げられず結果としてその罪悪感は彼の亡霊という姿を取ったのでは。
 ……ここまでいくと考察というよりも妄想の域ですかね…(笑)

●エレン
 この作品で一番好きな女性。一人の人間としてキムに同情してあげられるし、悪夢にうなされ知らない女の名を叫ぶ夫を支えることのできる女性って普通に聖母すぎました。
 ただ、彼女だってただ一人の女性であり自身の子どもだってほしい、私こそが正妻なのだという当たり前の感情を持っています。

 おそらくエレンは「良い人」なのです。「善人」になろうと努力できる「良い人」であり、自分の中の最善を見つけようとする人なのではないかと思います。
 たとえその答えが真にキムが求めたものでなかったとしてもエレンが自分を犠牲にせずにできた最善の答えを導き出したのだと感じました。


ちょっと長くなりましたので別記事でストーリー全体について、そしてロンドン公演についての感想を。

『ある戦争』 感想

映画

 倫理観が問われていると感じた作品でした。そして同時に戦争というテーマだけでない、普遍的な法哲学というテーマも絡んでいると感じます。観賞後にぐったりとしてしまうし疲れるけれども見てよかったと素直に思えました。

 以下、ネタバレ含む感想です。

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 主人公クラウスはとても人間的だと思いました。部下からも慕われているし現地住民を助けたいという人道的な心を持っている。けれど同時に人間が持ちうる非人道的な部分だってないわけではない。
 そして人間だから、いざという時は仲間の命を優先させる。でもこれって必ずしもクラウスを責められるんでしょうか。物語の冒頭で若い兵士が地雷で足を吹き飛ばされ殉死しました。まだ21歳の若者です。そして彼の死にショックを受け少なからず責任を感じている部下もいる。帰りたいのだと涙ながらに訴えていたその彼が今まさに命を落とそうとしているとなったらなんとしてでも助けてやりたいと思うことが罪でしょうか。それはあまりに酷です。私自身「この銃撃戦だ、きっと敵はいるのだろう、それよりもラッセを助けてあげてほしい」と手に汗握りながら思いました。彼の判断は軍人としてではなく人間として「普通」であるはずだと私は思いたい。

 しかし彼は罪のない民間人を11人が命を落とす直接の原因を作ってしまっている。娘が尋ねたように子供を殺してしまっている。そのことは明白な事実です。帰国直後に彼自身が言ったようにその罪を償うのが筋です。


 裁判において彼の罪を問うのならば白か黒か決めなくてはならないから敵を確認したか否かというのが争点になりました。彼は敵を確認していません。だってラッセを救うためにはそれどころではなかったから。
 確かにクラウスは住民の命を軽んじていたから空爆要請を出したのではない。部下の命を守ることが隊長の使命であるならば、そして一人の人間として、彼のしたことは「あの状況だったら仕方ないよね」と言えてしまえるかもしれない。その一方で裁判で言われていたように人道法に例外を作ってはならない、彼は法により裁かれなければならないというのも正しいはずです。だからこそ彼の場合における最高刑が終身刑ではなく懲役4年なのでしょうが……。
 ではあの混乱した戦闘の中で敵の確認ができないからラッセを見殺しにすることが本当に正しいことと言えるのか?それは果たして一般人が持ちうる良心が許すことなのでしょうか。これはもはや法哲学の領域かもしれません。
 ちなみに私個人の意見では無罪にするべきではないと感じます。仕方がないからといって民間人を死に追いやった責任はとらなくてはならないと思ってしまうので。


 また、裁判によって責任を問われていること以外にも彼は判断を誤っているのではないかと思いました。助けられたかもしれないのに、助けを求めた家族をみすみす死なせてしまったことです。クラウスにはあの家族が殺されてしまうことが分かっていたはずです。
 いや、もしかしたら軍人として判断を誤っていたとは言えないのかもしれません。だって助けを求める人間全てを助けることなど出来ないのだろうし、あの場で家族を助けるとなったら基地に彼らを保護するという現実的でない手段しかなかったのかもしれない。

 しかし私はあの家族の女の子の遺体の足を見て冒頭で亡くなった兵士の死体を思い出しました。そして空爆によって死んだ小さな女の子も兵士と同様に足が吹き飛ばされていた。


 無罪判決がくだされ、クラウスは自分の子どもを寝かしつける時、布団からはみ出た足を見ます。死体を思いだしたはずです。それは殉死した仲間のものか、見殺しにしてしまった女の子のものか、それとも自分が死の原因を作った女の子のものか。
 ただ皮肉なことにこの裁判は全てデンマークの中だけのものなんですよね。


 また、彼らは敵を撃ち殺した後はその死体の前で冗談を言って笑い合えることも確かなのです。仲間の殉死や助けを求めた家族の死を心から悲しめる一方で敵の命はあまりにも「軽い」。
 仲間の命、自分に少しでも関わりがあった助けられたかもしれない命、助けるべき命、自分を殺すかもしれない人間の命。命の選別が当然のように行われている。これは状況によっては許されることなのか、同情の余地さえあれば罪にはならないのか。

 鑑賞後の後味の悪さは問われていることが多すぎるからかもしれません。

『ある天文学者の恋文』 感想

映画

 ロマンチックなお話だけどちょっとファンタジーすぎるかも。あんまり読んだことないですけど少女漫画みたいだと思いました。
 ストーリー自体は私の好みではなかったけどエド扮するジェレミーアイアンズがかっこいいおじさまだったから見て良かった(笑)

 以下、ネタバレ含む感想です。



 イタリア映画だと思ってたけど別にイタリアが舞台ではない……ですよね? というか別に舞台がどことか気にすることもないのですが。それにしても島や湖が美しいんです。

 エドとエイミーは年の差カップルです。教授と生徒。うん、少女漫画みたいだとなんとなく思ってしまう。
 あと娘さんはそれでいいのかってちょっと気になってしまった……のは野暮ですかね(笑)

 エドは愛するエイミーのためにエド自身を「永遠に生かす」システムを作りますが……。最初はなんでもお見通しのエドがかっこよかったのですが、そんな先までエイミーの行動を読めるっていうのもファンタジーすぎるかなあ、なんて思ったり。
 あんまり情報入れずに見たのでてっきりエドは人工知能でも作ってるのかと思ってたらそんなことはなかった(笑)

 それから、エイミーが抱える秘密。すでに亡くなったエドから励まされ勇気を与えられる…と表現してよいのか分かりませんが、エドの死を通して父親の死を乗り越える姿が印象的でした。「カミカゼ」をするエイミーはとても危うく、首を吊るエイミーはスタントとはいえエドが死に本当に死にたかったんじゃないかとさえ思います。
 個人的には母親との和解をもっと描いてほしかったのですが……母親のもとに行く=過去に向き合うということでしょうし。エドは本当にエイミーを愛していたというのがじわりと感じられます。まあちょっとストーカーっぽいと感じたのはここだけの話(笑)


 頭を空っぽにしながらでもロマンチックな話なので雰囲気楽しめます。

●スタッフ
監督:ジュゼッペ・トルナトーレ
脚本:ジュゼッペ・トルナトーレ
製作:イザベラ・コクッツァ
   アルトゥーロ・パーリャ
撮影:ファビオ・ザマリオン
美術:マウリッツォ・サバティーニ

●キャスト
ジェレミー・アイアンズ
オルガ・キュリレンコ

●作品データ
原題:La corrispondenza
製作年:2016年
製作国:イタリア
配給:ギャガ
上映時間:122分

『ハドソン川の奇跡』 感想

映画

 登場する一人一人が生きていると思える作品でした。

 機内にいたのは無個性な155人の集合ではないし、かかわる人物全てに感情があります。その日何が起きたのかであったりサリーの青年時代であったりが徐々に明確になり、それと同時にサリーの感情がリアルに感じられる素敵な作品でした。

 以下、ネタバレ含む感想を。

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 サリーは感情を表に出しすぎない人物です。けれどロボットのように機械的な冷静さではない。冷静さの中に揺れ動く人間らしい感情がうごめいているのだと感じました。変な言い方になりますが感情の動きが段取り臭くないんです。じゃあ他の映画は段取り臭いのかと問われたらそんなことはないのですが^^; 、不思議とそんなことを思いました。
 

 印象的だったのは何かに衝き動かされるようにランニングをするサリーがハドソン川の奇跡を伝えるニュースから逃げるように路地裏に向かうシーンでした。
 もし自分の判断が誤っていたとしたらという自分自身に対する疑いであるとか、自分の感覚は正しかったはずだという自負だとか、そんなことがぐるぐると巡っていたのではと感じました。

 それにサリー自身も恐怖を感じていなかったわけはなく、何度も見てしまう飛行機がビル街に墜落するイメージに「これはサリーの〈イメージ〉だ」と分かっていても息を止めてしまいます。


 最後にサリーはシュミレーションにおけるミスを指摘し自分の判断が、感覚が正しかったことを証明します。そして「誇らしい」と言います。

 映画とはいえ、サリーのプロ意識であるとか、つとめて冷静でいようとする姿勢であるとかに感動しました。なんて尊敬できる人なのだろうとも思います。
 一方でそんな彼も万能ではない、人間らしい迷いや不安、恐怖を感じるというのがリアルに感じられます。そこを含めてサリーという人間とハドソン川の奇跡という実際の出来事に感動しました。

 比較的短い映画ですが、濃厚な時間を楽しむことができる素敵な映画です。
 最近は原作も読みたいな、なんて思い本屋をうろついてます(笑)


●スタッフ
監督:クリント・イーストウッド
製作:クリント・イーストウッド
   フランク・マーシャル
   アリン・スチュワート
   ティム・ムーア
製作総指揮:キップ・ネルソン
      ブルース・バーマン
脚本:トッド・コマーニキ
原作:チェズレイ・サレンバーガー
  ジェフリー・ザスロー

●作品データ
原題:Sully
製作年:2016年
製作国:アメリカ
配給:ワーナー・ブラザース
上映時間:96分

『グッバイ,サマー』 感想

映画

 気持ちの良い映画でした。14歳の少年は日々成長していく、みたいな。鑑賞後の満足感はほろ苦いラストだからこそ味わえたのかも。

 以下、ネタバレ含む感想です。

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 ダニエルが主人公のこの映画、この年代独特の悩みを抱えそれを自分の中で消化できずにいる。家族のことや自分のこと、恋愛のことなどなど……。他人の目が気になるダニエルは女の子のような容姿が気に入らないけど、かといって周りと一緒は嫌だ。なんとなくそういう気持ち、分かります。まさに思春期って感じですね(笑)


 ダニエルのちょっと不機嫌そうな顔が好きです。ちょっと刺激すると爆発しそうな危ない印象の顔。けれどその分楽しそうな顔をすると可愛らしい少年の顔をするんです。
 まだまだ子どものようで、しかし本人はもがいて子どもから抜け出そうとしている。そんな印象でした。

 一方のテオは周りと違う少年で、自分をしっかりと持っている感じがします。ダニエルと比べるとだいぶ大人びている少年。それによく気の利く優しい少年です。ダニエルの個展でのシーンは不覚にも「テオかっこいい!」と思ってしまいました。
 けれどテオの家庭はテオをダニエルのように少年のままでいさせてはくれないことがうかがえます。テオは大人びていても、やっぱりまだまだ少年。飛行機が怖いとか、車の許可が簡単におりると思っていたところとか(笑)
 けれど、それを一番に感じたのは寄宿学校に転入させられることになり、不安げな顔でダニエルを振り返るシーンでした。

 この物語はダニエルの物語であり、全てはダニエル視点です。だからテオの少年らしい弱さが見えたラストはもしかしたらダニエル自身の成長の現れだったのかも。
 最後の最後、ラストシーンはダニエル視点ではなかったけれどテオの言ったようにローラに以前のような恋心を抱かなくなった(と思われる)ダニエルはきっと自分の成長に気づいていないんだろうと思いました。


 またこの映画の大きな魅力はダニエルとテオの珍道中でした。まず、車を小屋にしようという発想だけでも面白い。それに加えてテオの動機が「おっぱい」になっており割りと必死(笑)
 個人的に面白かったのはやっぱりダニエルが「サムライヘアー」になったところでした。ベタだけど外さないネタだなあ。

 気軽に楽しめ少しほろ苦さを感じるけれど、それでも満足感のある映画でした。

●スタッフ
監督/脚本:ミシェル・ゴンドリー
製作:ジョルジュ・ベルマン

●作品データ
原題 Microbe et Gasoil
製作年 2015年
製作国 フランス
配給 トランスフォーマー
上映時間 104分

マシューボーンの『眠れる森の美女』@東急シアターオーブ(2016/09/20)

観劇

 9月20日に東急シアターオーブにてマシューボーンの眠れる森の美女を観劇しました。圧倒されました。

 その日のキャストは以下の通り。

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●オーロラ姫:アシュリー・ショー
●レオ:クリス・トレンフィールド
●カラボス/カラドック:アダム・マスケル
ライラック伯爵:リアム・ムーア


 この日はあいにくの雨模様でしたがチケットを買っていたので濡れながら渋谷へ向かいました(笑)
 しかしヒカリエは駅から直通ですしあまり濡れずに済んだので例え台風でも電車が止まらない限り行けますね!


 さて、以下ざっくり感想を。観劇ど素人の感想ですがご容赦ください。

 幕が上がり最初に目に入った赤ん坊の人形にぎょっとしました。何あれ怖い(笑)。思わずオペラグラスで見たのですがアップで見ると思ったよりも顔がしっかり描かれていてより怖い(笑)。ベビーオーロラ姫はカサカサ動き回って使用人達を困らせます。ここのシーン、舞踊というよりもストプレみたいでした。オーロラ姫に右往左往する使用人たちの動きがとってもコミカルで可愛らしささえ感じる。

 そしてベビーベッドで眠るオーロラ姫のもとに現れる妖精たち! 舞台セットが美しい! 特に大きな満月と妖精たちのシルエットが絵画みたいに美しい。ブロマイド売っていたら(物販は覗きませんでした)買っちゃいそうだなと思いました。
 ただ、バレエの知識が皆無でしたから肝心の踊りに関しては詳しいことは分からず^^;。月並みな感想ですが、妖精たちの踊りや表情が一人一人個性が出ていて、わくわくしました。あと衣装が美しいのと羽に目がいきます(笑)
 それからライラック伯爵も紳士な感じで綺麗でした。これはちょっと目視では分かりにくくて勘違いかもしれませんが、目の周りが黒く塗られていた?のがアライグマみたいで可愛い。

 それから登場するカラボスとその手下! カラボスがとても強そう。カラボスは女性ですが男性が演じています。不思議なこといかにも女装した男性のはずが、だんだん男性のような女装に見える不思議。手下の二人(二頭?)が嬉しそうにカラボスの足元に控えていたのが印象的でした。そういうところも含めて、カラボスが年をとったら絵に書いたような「森に住む恐ろしい魔女」になりそうだなあと思いました。
 しかもこのシーン、多分呪いをかけてるシーンだと思うんですがのっぺらぼうのオーロラ姫が登場するんですよね。怖い。でもこういう演出好きです。
 登場した時はぎょっとしましたが最終的にはなんだか好きになってしまったカラボスですが、彼女すぐ死んでしまうのでちょっぴり残念だったり。

 そして数年後、オーロラ姫は成長した姿を見せますがこれが美しくてさらに可愛らしい! 赤ん坊の時と同じで使用人を困らせているようですが(笑)ベッドの上でぱたぱたと足を動かすその仕草や表情がいちいち可愛い。顔立ちは可愛いというよりも美人という感じなのに、とても可愛い表情をするオーロラ姫というのはディズニーオーロラ姫しか知らない私にはとても新鮮でした。
 しかも、恋する相手は王子様ではなく狩猟番のレオ。紳士ではないしまさに身分違いという感じなのにオーロラ姫がお転婆娘なせいでお似合いカップルになってます。オーロラ姫がレオに帰るように促したりレオが使用人にバレないようにふざけてみたり……い、いったい何を見せられているの、と困惑するぐらいコミカルで可愛いシーンでした。

 そのシーンよりも更に困惑したのが次のパーティのシーン。テニス! ラケットを持ったまま踊る! 白い衣装がとても素敵で美しいシーンでしたがラケットに驚いてしまいました。
 しかし何といってもここのシーンではカラボスの息子カラドックが格好良かったですね。その後の彼は変態っぽく見えたのにこの時点では変態っぽさはありませんでした。ただただ、格好いい。

 印象的だったのは死んでしまったオーロラ姫が痙攣しながら死んでいったこと。めちゃくちゃ怖い。そしてレオがそれを目の当たりにしてかなり怯えていて、貴族たちから逃げ回るシーン。レオは本当に一般人で、ただオーロラ姫が好きなだけのいわゆる「ヒーロー」なタイプではないんだろうなあと思いました。頑張れ!と応援したくなるタイプ。
 死んでしまったオーロラ姫を前にして顔を焦りと恐怖で歪ませているのがゾクゾクしました。突然の出来事だからオーロラ姫を失ったことよりも理解不能な出来事に直面してしまったという表情でした。

 レオかわいそう、頑張れ、と思っていたら門が閉まっちゃってさらにレオがかわいそうな感じに。そこへ現れるライラック伯爵。事前にあまり情報を入れていなかったのですが、確かライラック伯爵が魔法をかけて不老不死かなんかにするんだったかなあと思いながら見ていたら……予想の斜め上に。ヴァンパイアだったの?……(笑)


 そして時は流れ現代に。観光スポットになっているお城と自撮りする若者に思わず笑ってしまいました。流石に自撮り棒ではなかった(笑)
 レオは近くから出てきましたが、パーカー……。馴染んで……る?と思いつつも羽があったのを確認しました。馴染んでませんね。けれどそれ以上にレオはオーロラ姫が眠ってからずっとそこにいたのでしょうか……。きっとそこにいたんだろうし、もしかしたら自分の背に羽があることも気付いてなさそう。なんだかレオには「恋は盲目」という言葉がピッタリな感じします。

 一方カラドックの方はというと、オーロラ姫への片思いを拗らせていました。キスしても起きないオーロラ姫に絶望するカラドック。ここのシーンのカラドックは変態っぽさが凄まじかった。
 変態、変態、と繰り返していますが、執着心のような愛を抱えたまま目覚めないオーロラ姫の近くで長い年月を過ごしたわけですから、まあねちっこくなるのも分かると言えば分かります。自分が殺した(眠らせた)くせに起きてくれと言わんばかりのカラドック。矛盾を抱えているなあ、としんみりしました。好きです。

 その後はライラック伯爵によって扉の中に潜入したレオが紆余曲折を経てオーロラ姫にキスをしたわけですが、ちょっとシーンが前後しているかも。とりあえず扉の向こうは異次元でした。

 キスしてオーロラ姫は目覚めますが、ここでもカラドックの執着心が発揮され……というかこれが狙いだったんだろうと思いますがレオにオーロラ姫を目覚めさせると即彼を外に追いやって自分がオーロラ姫の前に。いやー驚きました。


 次は打って変わってパーティ会場。怪しげな雰囲気です。毒々しささえ感じられます。この辺になると目に入ってくる情報にいっぱいいっぱいになってました(笑)
 そしてやっぱりレオはなんだか振り回されていた感じします。私もレオと同じで展開に振り回されていたのですが、何より気づいたらカラドックがライラック伯爵にめった刺しにされてた。ライラック伯爵は親をカラドックに殺されたんでしょうかってぐらいめった刺しでした。親を殺されたのはむしろカラドックなので逆です。

 ともかく、無事にオーロラ姫とカラドックはむすばれラストはベビー爆誕。直前にベッドにインしてたので驚きました。露骨!


 初めて鑑賞したこともあり衣装にも舞台セットにも、そしてダンスやストーリー全てに圧倒されてしまいました。
 バレエ鑑賞もなかなか楽しいです。もしもまた鑑賞する機会があるならバレエに詳しい人に解説してもらいたいな、なんて思ったり。